1.ピカソの作風
ピカソは、一言でいうと「破壊者」と言えます。
織田信長(日本統一)、ベートーベン(クラッシックからロックへ)等の破壊者が想起されます。
ピカソについては、以下のURLを参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。
(1)青の時代(1901年 - 1904年)
19歳のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け、鬱屈した心象を、無機顔料のプロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。
「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
(2)薔薇色の時代(英語版)(1904年 - 1906年)
フェルナンド・オリヴィエ(英語版)という恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。
薔薇色の時代の代表作『パイプを持つ少年(英語版)』の少年はピカソの油彩作品のデッサンのためにピカソのアトリエにボランティアで来ていた10代のモデルだったとされている。.
他にも『玉乗りの少女(英語版)』、『オ・ラパン・アジル(英語版)』、『サルタンバンクの一家(英語版)』、『軽業師の家族と猿(英語版)』、『曲芸師と幼いアルルカン(英語版)』、『花のバスケットを持つ裸の少女』、『ガートルード・スタインの肖像(英語版)』、『馬を引く少年(英語版)』等がある。
(3) アフリカ彫刻の時代(英語版)(1906年 - 1908年)
アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の影響を強く受けた時代。1907年に、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。
(4)プロトキュビスム(英語版)の時代(1907年 - 1908年)
1908年にはアフリカ彫刻の影響が色濃く現れながらも、プロトキュビスム(初期キュビスム)が確立され始める。
ポール・セザンヌの影響も強くうかがえることから、セザンヌ的キュビスムということもある。
1909年5月、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。
6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
(5)分析的キュビスムの時代(1908年 - 1912年)
1910年後半から1911年にかけて対象の分析はさらに進む。この頃には、プロトキュビスムの時代にしばしば描かれていた風景画はほとんど描かれることはなくなり、人物や静物が主な対象となる。
対象が徹底的に分解され、何が描かれているのか識別することが困難なところにまで到達する。広義的には抽象絵画ともいえるが、あくまで具象絵画である。
作品としては『オルタ・デ・エブロの工場(英語版)』『ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの肖像(英語版)』『Femme et pot de moutarde(英語版)』等がある。
(6) 総合的キュビスムの時代(1912年 - 1921年)
総合的キュビスムでは、印刷物などの紙や新聞紙、壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ(パピエ・コレ)が導入される。
これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドの先駆である。
また、分析的キュビスムの時代には抑えられていた色彩表現が復活した。
1914年頃から緑を基調とした、装飾的なキュビスムを描き始める。
装飾的で優雅な表現であることから、ロココ的キュビスムと呼ばれる。
(7) 新古典主義の時代(1917年 - 1925年)
1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことが影響して新古典主義の時代に突入する。
妻オルガと息子パウロをモデルにすることが多く、どっしりと量感のある、身体に比べて大きい手足、彫刻のような肉体、額から続く高い鼻などが特徴である。
(8) 1925年頃にシュルレアリスムに興味を持ち、シュルレアリスムのグループ展に参加する。
妻オルガに対する不満が大きく膨らんだ時期に描かれた『三人の踊り子(ダンス)』や『磔刑』などが代表作。
(9) 戦争とゲルニカ(1937年)
ナチス・ドイツ(実行したのはドイツ空軍のコンドル軍団である)がスペインのゲルニカを爆撃したことを非難する大作『ゲルニカ』や、その習作(『泣く女』など)を描いた。
(10) ヴァロリス期(1947年 - 1953年)
陶芸家としての活動を始める。
(11) 晩年(1954年 - 1973年)
過去の巨匠の作品のオマージュを手がけたり、油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。1972年には、死を予測したかのような一連の自画像を手がけた。
ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。
パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。
ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。
ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエ(英語版)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グール(フランス語版)という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。
ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなった[18]。
2.ゲルニカ考
(1) ピカソは、芸術の破壊者ト言えます。
常に、前の画風を破壊して、新しい風を起こしています。
(2)ゲルニカは、政治的には「ヒトラー」を強烈に批判した、「政治的産物」です。
では、「破壊者」から見たゲルニカは、どう見えるか?
薄っぺらいべニア板の上に、まるでペンキで描いた絵で、遠近感もないし、ポスター画です。
その意味から見ると、「これは、何だ????」となります。
決して、「何か革命を起こした」とは、到底思えません。
ゲルニカについては、以下を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AB_(%E7%B5%B5%E7%94%BB)