1.ムンクとは?
ムンクについては、以下を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AFムンクは
1863年、ノルウェーのロイテンで医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア(現オスロ)に移った。
1868年に母が病気で亡くなり、
1877年には姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている。
1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった。
1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。
この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。
フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ。
1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。
この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。
その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった。
1896年にはパリに移り住み、版画の制作などに注力した。
1897年からはノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。
この頃にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、徐々に彼女を避けるようになっていた(→オースゴールストラン)。
1902年からはドイツを中心に活動したが、この年、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった。
1903年頃からは友人のマックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりした)。
1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時にはノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた。
1909年に退院するとノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や労働者シリーズを手がけた。
1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが1944年に亡くなった。
1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。
『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、ムンクが鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる。
2.ムンクの叫びとは?
以下を参照ください。
https://www.bing.com/images/search?q=%e3%83%a0%e3%83%b3%e3%82%af&qpvt=%e3%83%a0%e3%83%b3%e3%82%af&form=IGRE&first=1 ムンクの絵は、「鬼気迫る切実な切迫感」を伝えています。
表現的には、「劇画化」を使っています。
「怖いから嫌」ではなくて、「怖い事を楽しむ」タイプの怖さを感じます。
時代が進み、美しいものを上品に描くから、自分のテーマを劇画風の作品で連綿と作り続ける。
初期に作った絵を、連綿と作っていき、自分の創造全体が、傑作でありたいという思いを持った人です。
ですから、これが傑作ということは無く、作品群全体が一つの作品と見るべきでしょうか?