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No.1539(話題の起点:No.1539)
巨匠の失敗作?? を始めます
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/14(Sun) 10:34:40   
以下の順で投稿します。

レオナルド・ダヴィンチ(最後の晩餐)
ミケランジェロ(ダヴィデ像)
フェルメール(真珠の首飾りの少女)
ドラクロア(民衆を導く自由の女神)
セザンヌ(サント・ヴィクトワール山)
ゴッホ(ひまわり)
ムンク(叫び)
ピカソ(ゲルニカ)
岡本太郎(太陽の塔)
アンヂィー‣ウォホール(ゴールド・マリリン)

世の中で、「傑作とされている作品は本当に美術的な価値があるのか?」というテーマで纏められています。

失敗作・駄作と言っているのではなくて、「作られた意図・現在おかれている環境・使った技術等が妥当ではない」という意味で果たしてMaster Pieceと、言えるのか???

 更に、「何が名作か?」という定義の問題提起、「絵画を評価する次元」にまで波及しています。
 ワイ・ガヤの議論かもしれません。

出典は「巨匠の失敗作」 岡澤浩太郎著 2014.9.10 株)東京書籍。

 
------------編集後記(先に)-------------------
私は、美術的には、ミュンヘンのレンバッハ・ハウスのKanjinski(ロシアの政治・経済学者で、画家に転身)が大好きです。
レンバッハ・ハウスについては、以下を参照ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8

 カンディン・スキーについては、以下を参照ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC


 カンディン・スキーは、ロシアで、具象絵画を描いてましたが、ミュンヘンに亡命して抽象画に変えました。

 音楽を絵で表現したり、ミュンヘンの画家達を元気付けるために、自分と一緒に6人の画家をBraue Reiter(青い騎士たち)を抽象画で表現しています。

 晩年になると、色遣いが弱弱しくなります。

 レンバッハ・ハウスには、抽象画が多くて、一日いても見足りません。

 昼食は、レンバッハ・ハウスの中で、チーズとワインを楽しみながら、ほろ酔い気分で鑑賞を続けました。
気に入った絵のところの、ソファーに寝そべりながら鑑賞します。

カンディンスキー展については、以下を参照ください。
https://www.museum.or.jp/event/69981
「コンサート」という絵は、指揮者がタクト(黄色い棒)を振って楽団を指揮しており、」音楽を聴いている聴衆が描かれています。抽象画で、インプレション(印象)と名付けらた習作の一つです。


ある時、シーメンスとの会議をサボってレンバッハ・ハウスに入ろうとした時に、入り口で「日本から絵画の補修に来ている女の子」に呼び止められ
 「富士通の金田さんですよね? シーメンス社の富士通事務所から至急富士通川崎本社工場のXX常務に連絡をするように」と伝言がありました。」と言われました。
 急いでシーメンスの富士通事務所に行って、XX常務に電話したら「Schnaps=ドイツの焼酎を買ってくるように!」と言われ、悪いことは出来ないなと思いました。

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この常務は、「方式課長が居ないときには、メインフレーム関係の決定は行わないという」習慣を義務付けていました。
 富士通常務会で、「IBMから秘密情報を買うの中止する。」という決定を常務会で採る案件では、「私は、反対です。」と言ったら、「差し戻し」となりました。

 IBM互換ビジネスの売り上げが下がってきたので、一枚「$1M(1.2億円」のIBM情報を購入しないという案件を決定するものでした。

 私は、「当時、その方向性には賛成してました」が、偶々私が出張している間に事業部内で決定されました。
 アムダ―ル社に互換機を開発していましたので、「アムダ―ルの私のカウンター
・パート」にその旨を話す前に、こういう決定をするのは、「仁義を欠く」ことになると思ったからです。
 一応、カウンター・パートにこの旨了解してもらった後に、
                    再度常務会に計上して貰って、議決してもらいました。
 アムダ―ルの連中も、互換機が中止になると会社が無くなるので、「新たな仕事」を探し必要があり、一刻も早く就職活動をしてほしいと思いました。


富士通事務所には、「明日の会議は、営業の話なので、技術の私がいなくてもよいので、会議をサボって、レンバッハ・ハウスに朝から行きます」と言ってあったので、レンバッハハウス美術館に連絡してくれたのだと思います。
 

 仕方ないので、シーメンスとの会議に出席しました。

 翌日は、朝から"Volk Bad=市営サウナ"に行って、その後近くの、Duetsche Museumを一日中見学しました。
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No.1540(話題の起点:No.1539)
ダビンチ
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/16(Tue) 07:19:42   
1452ー1519,名前は、ダビンチ村のレオナルドという名前らしいです。
芸術のみならず、解剖学、数学、植物学など「万能の天才」と言われています。
有名なのは、時間をかけて何べんも修正しています。

 以下を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81


 例えば、モナリザは、1503ー1505年の間描きましたが、終生手元に置いて修正していたようです。

 傑作の最後の晩餐は1495ー1498年は、「フレスコ画」ですから、天井に塗った漆喰が乾く前に顔料を塗りこめる技法ですが、短期間に完成する必要があります。
 ですから繊細な表現が出来ず、また描き直しや塗り重ねが出来ません。

 ですから、特殊な描き方をしました。
 漆喰を乾かして、卵などで溶いた顔料を用いて描いた「テンぺラ画」と呼ばれる技法を使った。
 通常は、カンバスや木の板に描く技法です。

 正しい、「フレスコ画」の技法を使ったのは、ミケランジョロの<シスチーナ礼拝堂天井画>で、修復後に色鮮やかに蘇りました。

レオナルドは、科学者ですが「絵の具の属性」、「高湿度なミラノの気候問題」、、などに配慮が不足しています。
  酷い状態になっています。

1. 万能の天才?
 レオナルドは、「天才」というよりも「ADHD= attention deficit hyperactivity disorde」という見方もあります。簡単に言うと、「イラチ」の極端なものと思ってもらえばよいと思います。
 すぐ目移りして、いつもきょろきょろと何かを探している。完成せずに、次の興味があることに手を出します。

 女に目移りする「浮気男」と思ってもらえれば、お判りでしょう!!

 以下で、確認ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E6%84%8F%E6%AC%A0%E9%99%A5%E3%83%BB%E5%A4%9A%E5%8B%95%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

2. 作られた天才?
2.1 モナ・リザ
  穏やかな微笑を称えたルネサンスの肖像画です。
  盛期ルネサンスの絵としては、華やかさがありません。
  ボッテェチェリの「ビーナス」の泡から生まれたてで、貝の上に立ち上がって、春の気持ちの良い風に吹かれていて、天使たちと戯れている美女とは、えらい違いです。
  ダ・ヴィンチの絵としては、寧ろ「白豹を抱く婦人」の方が、傑作です。
  ルーブル博物館での展示、「ダ・ビンチ・コード」の映画、等の影響が大きいのが「ダヴィンチの傑作と言われた」理由だと思われます。

2.2 最後の晩餐
  この絵は、ダ・ビンチの唯一の傑作です。

  絵は、新約聖書「マタイ福音書」、2.6-2.7章に書かれている「ユダの裏切り」を表しています。
  只、描いた技法を誤った(描き方、置かれた環境)んだと思います。

  さらに、ダビンチが作曲した音符を読み取れます。

  掲示板の#1471 2023/11/02の私の投稿をご覧ください。
キーワードは「最後の晩餐 楽譜」で検索ください。

更に、三満日会の「ボランティア 006]の滝さん投稿の「宗教画解説 第一回 最後の晩餐」を参照ください。
No.1541(話題の起点:No.1539)
ミケランジェロ(ダビデ像)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/16(Tue) 15:29:33   
皆様は、ゴリアテとダビデをご存じですか?

旧約聖書「サムエル記}に書かれた話です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%86
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  ダビデとゴリアテの戦いは「第一サムエル記」第17章に記されている。
 ペリシテ軍はエフェス・ダミムに陣を敷き、イスラエル軍はエルサレムの南西にあるエラの谷(英語版)に陣を敷き対峙した。
 ペリシテ陣営からゴリアテという巨漢の戦士が現れると「勇者を一人出して一騎討ちで決着をつけようではないか。もしお前たちが勝てばペリシテはお前たちの奴隷となる。
 ただし俺が勝てばお前たちはペリシテの奴隷となれ」と40日間、朝と夕の2回にわたってイスラエル兵たちを辱めた。
 しかしイスラエル兵はゴリアテに恐れをなし、戦いを挑もうとする者はいなかった。

 羊飼いのダビデは、イスラエル軍に参加していた兄に食料を送り届けるために陣営を訪れていたが、この話を聞くと憤り、イスラエル軍を率いていたサウルにゴリアテの退治を申し出た。
 サウルは初めは難色を示したが、他に手段がなかったため、ダビデの出陣を許可した。
 サウルは自分の鎧と剣をダビデに与えたが、ダビデは「慣れていないので歩くこともできないから」とそれらを身に着けず、羊飼いの武器である杖と、投石器と、川で拾った滑らかな5個の石という軽装でゴリアテに挑んだ。

 ゴリアテは「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と嘲ったが、ダビデは「お前は剣と槍を頼りに戦うが、私はお前がなぶったイスラエルの戦列の神、万軍の主の名を頼りに戦う。
 戦いは剣と槍の力で決するものではないことを人々は知ることになるだろう。
 これはイスラエルの神の戦いである」と返答した。
 これを聞いたゴリアテはダビデに突進した。
 ダビデは袋の中から1個の石を取り出し投石器で勢いよく放つと、石はゴリアテの額に命中し、うつ伏せに倒れた。
 ダビデは剣を所持していなかったため、昏倒したゴリアテに近寄って剣を奪い、首をはねて止めを刺した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ミケランジェロについては、以下を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3

 ミケランジェロは、1475年イタリア・トスカーナ地方のカプレーゼという村に生まれる。
 幼年期をフィレンチェで過ごしtsミケランジェロは、13歳で画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし、その1年後には、市から一人前の画家として認められるほどの早熟だった。
しかし、当初から彫刻作品を多く残しており、本人としても画家というよりむしろ彫刻家としての意識が非常に強かったようです。
1489年当時権勢を誇ったメディチ家の当主ロレンツォ・ディ・メディチの宮殿に招かれましたが、メヂィチ家も没落します。
 数年にわたる政治的混乱の後、1501年フィレンツエ共和国宣言がなされた時に当時21歳のミケランジェロに白羽の矢が立ちます。
 ダヴィデ像は、ヴェキオ宮殿(市庁舎)を背景にシ二ョ―リア広場を望む方向に設置された。
 ただ、現在はこの場所にはレプリカが置かれ(自然・人為的な損傷を避けるため)、本物はアカメディア美術館に1873年に移設されました。
この作品は、下から見るとちょうどよく見えるように頭部が大きく作られています。
 広い広場にしたから見るとバランスがとれるように作られていますが、現在の美術館ではアンバランスに見えます。
 本来ダビデ像は、フィレンチェの独立の象徴として「極めて政治的なシンボル」として作られました。

 美術的にはアカメディア美術館の未完のマタイ像、奴隷の像などの造形美は、ロダンの「考える人」の様な「力強さ・迫力」を感じます。

 まるで、運慶・快慶の仁王像のような筋肉美・躍動感を感じます。

 しかし、ダビデ像には、躍動感がありません。

 投石器で、ゴリアテを倒すためには、右肩を下げて(右利きとしたら)、筋肉を撓めないと駄目です。
 しかも、顔は「ゴリアテ憎し・絶対相手を殺す」という顔ではなく、冷静なハンサムな顔です。

 冷静に、ゴリアテに定めを冷徹に行っていて、闘志を密かに燃やしているという見方もあるようですが、マタイ像、奴隷の像などの躍動感は欠落しています。

 フィレンチェの独立というシンボルとしては、非常によくできていると言えます。

目の中に、ハートの形が刻まれているようです.

 ハートの目で、ゴリアテを見て,投石器の照準を当て、投石したのでしょうか?

  ハートの目で、フィレンチェの独立を喜んでいるのでしょうか???

 
No.1543(話題の起点:No.1539)
フェルメール(首飾りの少女)(完)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/20(Sat) 17:47:05   
フェルメールの首飾りの少女は,一般的には有名です。
以下を、参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB

1.初めに
 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer オランダ語: [joːˈɦɑnəs vərˈmeːr], 1632年10月31日? - 1675年12月15日?)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。
 映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。
フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。
本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。

2.概要
フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどとともに、バロック絵画を代表する画家の1人である。
 また、レンブラントやハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である。

生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。
 最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年-55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。
 現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、32から37点と少ない。
 このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。

3.全盛期
 父親の死後、1655年に実家の家業を継いで、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。
 こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。
 また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。
 この2人はのちに「デルフト派(英語版)」と呼ばれるようになる。
 他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。

4.不遇の時代
 レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。
 第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。
 追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。
 さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。 戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。
 この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。

5.技法
 人物など作品の中心をなす部分は精密に描き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。
 この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。
 『レースを編む女』の糸くずの固まり、『ヴァージナルの前に立つ女』の床の模様などが典型的な例として挙げられる。
 また、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多い。

 フェルメールは、描画の参考とするためカメラ・オブスクラを用いていたという説がある。

 彼の用いた遠近法については、NHK制作のドキュメンタリー(ハイビジョンスペシャル)「フェルメール盗難事件」[3]にて別の研究成果が紹介された。
 まず、絵の一部に消失点となる点を決め、そこに小さな鋲(びょう)のようなものを打つ。次に、それにひもを結びつけてひっぱる。
 このとき、このひもにチョークを塗り、大工道具の墨壺(すみつぼ)のような原理で直線を引く。この線と実際の絵を比較すると、窓やテーブルの角のラインが一致している。
 フェルメールの17の作品において鋲を打っていたと思われる場所に小さな穴があいていることからもこの手法がとられていた可能性は高い。

 少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現しており、この技法はポワンティエ (pointillé) と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つとされる。

 フェルメールの絵に使用される鮮やかな青は「フェルメール・ブルー」と呼ばれる(金と同じ重さ当たりの高価なラピスラズリに含まれるウルトラマリンという顔料に由来)。

 フェルメールからインスピレーションを受けたアーティストは多い。たとえば料理写真家のエイミー・ツイガーはフェルメールが描いた乳母の優雅さにインスピレーションを受けた。
 彼女の作風は、特に『窓辺の読書少女』の「絨毯とカーテン」を思わせる。

6.真珠の首飾りの少女について
 小説や、映画による効果以外に「北方のモナリザ」というキャッチフレーズの効果がこの絵に大きすぎる風評を与えてます。
 ただ、この作品は、「最高傑作」とは言えません。

 その理由は、「背景が黒く塗りつぶされていることです。
 フェルメールの特徴は、「世界に対する公平さ」、「光の粒立ち」などです。
 
真珠の首飾りの少女」には、フェルメールが、他の作品で探求した「光」や「遠近」のモチィーフは控えめです。

 当時強大な力を持っていたトルコへの憧憬を表したような「ターバン」を金と並ぶ高価なラビズラビリィ―で描いたのが奇異です。

 最高傑作ではないが、色々なキャッチ・コピー、中でも「金と同じ重さ当たりの価格を有するラビズラビリィ―」をふんだんに使用するこの絵は、実力以上に注目されています。

 「真珠の控えめな首飾り」、「少女の瑞々しい唇の輝き」などは、「処女の雰囲気」が良く出しています。

 フェルメールの最大特徴は、「奥行や空間」、そして「光」です。

 例えば、「牛乳を注ぐ女」には、部屋全体の奥行やヒヤリとした空気を感じさせます。
 また、背景の壁の光や手前の光も非常にきれいにえがかれています。

 一方「真珠の首飾りの少女」には、フェルメールの特徴が全く感じられません。
 
No.1545(話題の起点:No.1539)
ウジューヌ・ドラクロア(民衆を導く女神)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/24(Wed) 11:12:07   
ウジューヌ・ドラクロアについては、以下のWikiepediaを参照ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%AF

1.生まれ

 1798年、パリ近郊のシャラントン (現在のサン=モーリス) に生まれた。
 父は外交官シャルル=フランソワ・ドラクロワ(フランス語版)だが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーラン=ペリゴールが実の父親だという仮説があり、かなりの根拠がある。

2.業績
  新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲラン (Pierre-Narcisse Guérin) に入門し、1822年、『ダンテの小舟』で先輩画家であるアントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もありサロン(官展)に入選した。
 1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品する。
 この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。
 グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。
 1830年の七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作している。この絵画は彼の肖像と共に、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたこともあった。

 1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。
 1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。
 1830年代以降は、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛けた。
 1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。

3.美術館
 アトリエ兼自宅は、国立のウジェーヌ・ドラクロワ美術館となっている。

4.民衆を導く女神の画
この絵は、1830年の7月革命を描いている。
 1830年7月27日から29日にフランスで起こった市民革命。
この三日間は栄光の三日間(仏: Trois Glorieuses)と呼ばれている。
 これにより1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。
 ウィーン体制により構築された正統主義は部分的に崩壊し、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップが王位に就いた。
 その影響はヨーロッパ各地に波及し、ウィーン体制を揺るがせた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B97%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD

 このあたり、目まぐるしく政治体制が変わりましたので、年代を示します。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 1789年   フランス大革命で、「ルイ16世&マリー・アントワネット」の王政が倒れた。
 1792年   第一共和制
 1798-1804 フランス共和国
 1804-1814 フランス第一帝政(ナポレオンI)
 1814-1824 フランス王国(ブルボン家〈ルイ18世)
 1830年   7月革命
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5.民衆を導く女神の画

(1)ドラクロアの有能さ・本質

 絢爛豪華な歴史絵巻を描くことに秀でています。

 「サンダナパールの死」が、典型的な絵です。
 以下のWiquipediaを参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%BB
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 アッシリア王サルダナパール(en)の最期を描いた歴史画である。ベッドの上に裸の女性が横たわり、無表情なサルダナパールに命乞いをしている。
  サルダナパールは、自身の世俗の財産が破壊されるのを眺めている。
  サルダナパールは軍の敗北に際し、財産を破壊し愛妾を殺害するよう命じ、自身で火をつけたのである。

『サルダナパールの死』は、バイロン作の戯曲『サルダナパール』に基づいており、ロマン主義の作品に分類される。
 この絵は、豊かで鮮明な、暖かい色彩により、さまざまなタッチで描かれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  詩人バイロンの戯曲を通じて間接的な着想を得て描いている。

  ベッドの上の赤い布が印象的です。
  滅びの場面は、「そこまで、やるか?」と思われる程目を見張ります。

  これは、ドラクロアの「想像・思い込み」を「創造」したものであり、説明のつかない着想がこの絵の肝です。

  女たちを、自分の目の前で「グサグサ」刺していて,サンダナバールはその様を、ベッドの上でじっと見ている。
  ドラクロアが、実際に見ていない画面を、記憶力という勘違いによって生まれる偶然性の面白さがある。

 ドラクロワの本質は想像力によってここに存在しないものを、描くこと、つまり「エトランジェ=(異邦人)」という表現が最も相応しいでしょう。

 (2) 民衆を導く女神とは?

   見たままの単純な絵で、7月革命を「シンボライズ」するために「政治的に利用されている」だけです。

   何故、フランス国旗の「3色旗」が必要なのか?

   芸術と社会を結ぶ接点として機能するには、「3色旗」は格好の素材でしょう!!
No.1546(話題の起点:No.1539)
セザンヌ(サント・ヴィクト―ワール山)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/25(Thu) 10:12:20   
ポスト印象派の旗手と謳われ、ピカソやマチィスなどの後続の大家たちに影響を与えた孤高の画家です。
以下のWipediquaを参照ください。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8C

1.概要
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年1月19日 - 1906年10月23日(墓碑には10月22日と記されているが,近年は23日説が有力[注釈 1]))は、フランスの画家。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していた。
 しかし、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。
 ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。

2.セザンヌの作風・技法の変遷
 リオネロ・ヴェントーリは、セザンヌの油彩画の発展段階を、
  (1)アカデミズムとロマン主義の時期(1858年-71年)、
  (2)印象主義の時期(1872年-77年)、
  (3)構成主義の時期(1878年-87年)、
  (4)総合の時期(1888年-1906年)に分けて考察している。

 もっとも、印象主義との出会いの時期も必ずしも印象主義的な絵を描いたとはいえず、構成と総合は年代に依存するものではないため、初期のロマン主義的作品を除く後期作品については、年代によって区分することは恣意性を含むとの指摘もされている。

3.セザンヌの特徴
 印象派の人たちは「人の目」になろうとした。視覚に忠実であることを目指した。
 セザンヌは、それに加えて「対象となる物質自体が持っている性質の強度の差を描いた。セザンヌは「写真の感光板」になるという言い方をしている。 
 セザンヌの絵画は、光や熱を自分の体で受けて、それを絵で置き換えていくような描き方をしている。

 セザンヌは、自分の試みが実験的であるとことを、自覚していた。
 自分が描いた絵は、「未だ実現してない」という認識を抱き続けていた。
 良く、描かれた作品もあれば、最後まで完成させようとしない作品もある。

4.サント=ヴィクトワール山とは?
 サント=ヴィクトワール山は、エクスの郊外にある標高1000メートルほどの山である。

以下を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B1%B1

 セザンヌは、1870年に描いた風景画の背景にこの山を取り入れたことがあるが、1880年代半ば以降、この山を重要なモティーフとする連作に取り組むようになった。
 油絵、水彩、素描で数十点が描かれている。
 サント・ヴィクトワール山は、連作で「完成という概念」を疑っている作品です。

 20世紀の画家たちに与えた影響を考えると「名作」であることは、間違いありません。
 近代芸術は、「名作という概念を壊していくこと」に、問題提起があります。
 絵画の「パラダイム・シフト」を提起する事です。
 この意味で、意図を果たしています。

 結論から言うと、「名作」への「パラダイム・シフト」を目指したもので、「名作とは何か??」への疑義を提案した「名作」といえます。
No.1547(話題の起点:No.1539)
ゴッホ(ひまわり)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/25(Thu) 11:18:01   
58億円の絵の真相

1.ゴッホとは?

  数字的に、ビックリします:
     37年という短い生涯のうち、僅か10年活躍。代表作は「ひまわり」。7作品といわれている
     油絵だけで、800点以上を残している。
生前に売れた画は,一点のみ。
     「ひまわり」の絵は、1987年58億円!で落札
2.生涯

  1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。
  1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働く
  1876年、商会を解雇された(グーピル商会)。
      その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになる。
  1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。
  1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。
  1881年 オランダのエッテン(1881年4月-12月):貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵、
  1882年 ハーグ、
  1883-1885 ニューネン:「ジャガイモをたべる使途人」
1985-1986 ベルギーのアントウェルペンへと移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。
  1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。『タンギー爺さん』などが知られる。
     日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。
  1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。
      南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。
      以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。
  1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。
       発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。
  1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(死)。
        発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている。

   生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。
   彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。

 弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(手紙)。
 約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100枚以上の作品を残した。
 有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。
 一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画、風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。
 印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった。

 ゴッホについては、以下を参照

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B


3.ひまわりとは?
  ゴッホは、「画家の内面を表した画家と言えます。
  ひまわりの花を「燃え上がるように上に向かっているのが希望」、「下にい向かうのは失意」の表れと言われていますが、何方かというと「願い」や「思い」のような前向きの姿勢が勝っています。

  「タッチ」や「補色の原理」「筆であらわすウネリ」、等により自分の内面と周囲の人物に対する愛情や関係をすべて描いています。
  言い刈れば、人間に姿は無いがヒマワリという花を通じて描かれた肖像画の様なものです。

  ゴッホのひまわりについては、以下を参照下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%BE%E3%82%8F%E3%82%8A_(%E7%B5%B5%E7%94%BB)
『ひまわり』(フランス語: Les Tournesols、オランダ語: Zonnebloemen、英語: Sunflowers)は、1888年8月から1890年1月にかけてフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた、花瓶に活けられたヒマワリをモチーフとする複数の絵画の名称である。

 ファン・ゴッホにとってのヒマワリは、明るい南仏の太陽、ひいてはユートピアの象徴であったと言われている。
 アルル滞在時に盛んに描いたひまわりを、精神病院での療養が始まってからは描いていないこともその根拠とされる。

4.ゴッホのヒマワリの絵が絵画の価格を一変(絵画が投機の対象となった)

  1987年、58億円という途方外の値段を創出した!!!
  超高額落札、発見、盗難、、等の絵画(絵画は、大きくないキャンバスの上に描かれているので、額から外せば、巻いて簡単に持ち運びできる。)
  絵画にまつわる、事件が起きる切欠となりました。

  巨匠の失敗作の議論以前の話です。
  絵画への見方が「傑作・失敗作」どころか、絵画が別次元(経済面)から評価されるようになった端緒です。
No.1548(話題の起点:No.1539)
ムンク(叫びの連作群)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/25(Thu) 13:04:26   
1.ムンクとは?

ムンクについては、以下を参照ください。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF

ムンクは
 1863年、ノルウェーのロイテンで医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア(現オスロ)に移った。
 1868年に母が病気で亡くなり、
 1877年には姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている。
 1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった。
 1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。
    この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。
    フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ。
 1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。
     この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。
     その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった。
 1896年にはパリに移り住み、版画の制作などに注力した。
 1897年からはノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。
    この頃にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、徐々に彼女を避けるようになっていた(→オースゴールストラン)。
 1902年からはドイツを中心に活動したが、この年、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった。
 1903年頃からは友人のマックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりした)。
 1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時にはノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた。 
 1909年に退院するとノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や労働者シリーズを手がけた。
 1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが1944年に亡くなった。
 1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。
   『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、ムンクが鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる。

2.ムンクの叫びとは?

 以下を参照ください。
https://www.bing.com/images/search?q=%e3%83%a0%e3%83%b3%e3%82%af&qpvt=%e3%83%a0%e3%83%b3%e3%82%af&form=IGRE&first=1

 ムンクの絵は、「鬼気迫る切実な切迫感」を伝えています。
 表現的には、「劇画化」を使っています。
 「怖いから嫌」ではなくて、「怖い事を楽しむ」タイプの怖さを感じます。

 時代が進み、美しいものを上品に描くから、自分のテーマを劇画風の作品で連綿と作り続ける。
 初期に作った絵を、連綿と作っていき、自分の創造全体が、傑作でありたいという思いを持った人です。
 ですから、これが傑作ということは無く、作品群全体が一つの作品と見るべきでしょうか?
 
No.1549(話題の起点:No.1539)
ピカソ(ゲルニカ)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/25(Thu) 16:11:30   
1.ピカソの作風
ピカソは、一言でいうと「破壊者」と言えます。
 織田信長(日本統一)、ベートーベン(クラッシックからロックへ)等の破壊者が想起されます。

 ピカソについては、以下のURLを参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD

 ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。

(1)青の時代(1901年 - 1904年)
 19歳のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け、鬱屈した心象を、無機顔料のプロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。
  「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。

(2)薔薇色の時代(英語版)(1904年 - 1906年)
 フェルナンド・オリヴィエ(英語版)という恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。
 薔薇色の時代の代表作『パイプを持つ少年(英語版)』の少年はピカソの油彩作品のデッサンのためにピカソのアトリエにボランティアで来ていた10代のモデルだったとされている。.
 他にも『玉乗りの少女(英語版)』、『オ・ラパン・アジル(英語版)』、『サルタンバンクの一家(英語版)』、『軽業師の家族と猿(英語版)』、『曲芸師と幼いアルルカン(英語版)』、『花のバスケットを持つ裸の少女』、『ガートルード・スタインの肖像(英語版)』、『馬を引く少年(英語版)』等がある。

(3) アフリカ彫刻の時代(英語版)(1906年 - 1908年)
  アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の影響を強く受けた時代。1907年に、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。

(4)プロトキュビスム(英語版)の時代(1907年 - 1908年)
 1908年にはアフリカ彫刻の影響が色濃く現れながらも、プロトキュビスム(初期キュビスム)が確立され始める。
 ポール・セザンヌの影響も強くうかがえることから、セザンヌ的キュビスムということもある。
 1909年5月、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。
 6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。

(5)分析的キュビスムの時代(1908年 - 1912年)
  1910年後半から1911年にかけて対象の分析はさらに進む。この頃には、プロトキュビスムの時代にしばしば描かれていた風景画はほとんど描かれることはなくなり、人物や静物が主な対象となる。
 対象が徹底的に分解され、何が描かれているのか識別することが困難なところにまで到達する。広義的には抽象絵画ともいえるが、あくまで具象絵画である。
 作品としては『オルタ・デ・エブロの工場(英語版)』『ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの肖像(英語版)』『Femme et pot de moutarde(英語版)』等がある。

(6) 総合的キュビスムの時代(1912年 - 1921年)
  総合的キュビスムでは、印刷物などの紙や新聞紙、壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ(パピエ・コレ)が導入される。
 これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドの先駆である。
 また、分析的キュビスムの時代には抑えられていた色彩表現が復活した。
 1914年頃から緑を基調とした、装飾的なキュビスムを描き始める。
 装飾的で優雅な表現であることから、ロココ的キュビスムと呼ばれる。

(7) 新古典主義の時代(1917年 - 1925年)
 1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことが影響して新古典主義の時代に突入する。
 妻オルガと息子パウロをモデルにすることが多く、どっしりと量感のある、身体に比べて大きい手足、彫刻のような肉体、額から続く高い鼻などが特徴である。

(8) 1925年頃にシュルレアリスムに興味を持ち、シュルレアリスムのグループ展に参加する。
 妻オルガに対する不満が大きく膨らんだ時期に描かれた『三人の踊り子(ダンス)』や『磔刑』などが代表作。

(9) 戦争とゲルニカ(1937年)
 ナチス・ドイツ(実行したのはドイツ空軍のコンドル軍団である)がスペインのゲルニカを爆撃したことを非難する大作『ゲルニカ』や、その習作(『泣く女』など)を描いた。

(10) ヴァロリス期(1947年 - 1953年)
  陶芸家としての活動を始める。

(11) 晩年(1954年 - 1973年)
 過去の巨匠の作品のオマージュを手がけたり、油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。1972年には、死を予測したかのような一連の自画像を手がけた。


 ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。
 パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。

 正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。
 ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。
 ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエ(英語版)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グール(フランス語版)という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。
 ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなった[18]。

2.ゲルニカ考

(1) ピカソは、芸術の破壊者ト言えます。
  常に、前の画風を破壊して、新しい風を起こしています。

(2)ゲルニカは、政治的には「ヒトラー」を強烈に批判した、「政治的産物」です。
  では、「破壊者」から見たゲルニカは、どう見えるか?

  薄っぺらいべニア板の上に、まるでペンキで描いた絵で、遠近感もないし、ポスター画です。

  その意味から見ると、「これは、何だ????」となります。
  決して、「何か革命を起こした」とは、到底思えません。

ゲルニカについては、以下を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AB_(%E7%B5%B5%E7%94%BB)
No.1550(話題の起点:No.1539)
岡本太郎(太陽の塔)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/25(Thu) 18:20:42   
 岡本太郎の芸術は、一言でいうと、「考えなくても済む芸術」といえます。

 芸術は、一般的には思想などの講釈があって優良可が云々されます。
 岡本太郎のは、単純ですから「爆発」と言っておけば、「ああ!!」となります。


1.岡本太郎の生い立ち

 以下の、URLを参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E

岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。
父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。

父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し[注 1]、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。
お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。
岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。
また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。
そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。
後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。

2.太陽の塔とは何か?

 以下のURLを参照ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E5%A1%94

太陽の塔は、「人間の自由を表す芸術」なのか、或いは「巨大さと、表現のわかりやすさから、万博の政治的なモニュメント」なのか?

 前者なら、「人間の爆発を表す一大芸術」であろうし、後者ならば政治的な象徴であろう。

 上記2つの意見があり、どちらであろうか???

ーーーーーー万博のルールーーーーーーーーーーーーー
 元々のルールは、万博の後はすべて解体する事を約束させられています。
 唯一の例外は、「太陽の塔」と、パリ万博のエッフル塔です。
 
 大阪府民のたっての投書により「残す」ことになりました。
 岡本太郎は、最初から残ることを予想して作ったと思われる跡があります。
 中にある、生物の系統図とか、太陽の顔、昔の太陽の顔とか、顔が4つもあるとか??
 太陽の顔が、鉄で作ったために、錆が出てお祭り広場の屋根に振りしそいだので、ステンレスの素材機変えたとか、黒い顔は信楽の焼き物で作ったとか、その場限りの作りっぱなしです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

面白いのは、「お祭り広場」の屋根に穴を開けさせて、太陽の塔の頭を出させるというアイデアです。
「世界の丹下」と、取っ組み合いの喧嘩をしたそうです。
 丹下健三というより、弟子の磯崎新の作ですが、雨風になっても、お祭り広場で「どんちゃん騒ぎ」が出来るように設計されています。
 広大な領域を囲うため、軽量鉄骨、軽量素材が選ばれています。
 大阪万博の後、パリの、ポンピドー・センターでも、この屋根の斬新的な設計は採用されました。

 丹下健三事務所の総力を挙げて、綿密に安全設計されています。

 それに、穴をあけるというのは、建築家にとっては屈辱です。

 何の目的で、穴をあけるのか?

 常識的には、屋根の外に塔を建てるべきでしょう!!

 太陽の塔自体の、安全設計は、出来ていないと言いますし、安全設計上太陽の塔は建築不可だったようです!!

 そもそも、屋根に穴をあけたら「お祭り広場」の役に立ちません。
 雨・風が吹き込んだりしますし、強度設計を再度やり直さないといけませんし、複雑すぎて計算できないでしょう。

 果たして穴をあけた状態での強度設計は出来るのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 兎に角、岡本太郎が自分の思い付きを、「世界の丹下」の前でポロット喋って、自説を通すという心境が理解できません。
 東京オリンピックで、日本の体操競技の為に代々木の岸体育館を作った丹下健三を相手にして「良くやるよ!!」とびっくりします。

 
No.1552(話題の起点:No.1539)
入る価値があります
投稿者:勝又一郎  投稿日:2024/04/28(Sun) 05:32:10   
太陽の塔は、大阪万博(東京から、一人ドライブで往復)では外見だけでしたが、数年前に中に入ってみました。最上部までは階段がきついのですが、入り口で断ると、下りも適当にエレベーターに乗せてくれます。

一見の価値があると思うので、是非訪れて見てください。

その場考学半老人 妄言

昨夜、2泊3日の壱岐対馬の旅から帰りました。島の立地条件、古代史、現在の特産物(日本でダントツ)など、現地ガイドの人から、全く知らなかったことを色々聞かされて、勉強になりました。暇ができたらブログの「その場考学との徘徊」を書くつもりです。
No.1551(話題の起点:No.1539)
アンディ・ウォホール(ゴールド・マリリンモンロー)
投稿者:Sabu Q D Kaneda  投稿日:2024/04/25(Thu) 21:22:35   
1.
アンディー.ウォホールについては、以下のURLを参照ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%AB

1.生い立ち: 誕生 - 大学卒業

(1)チェコスロバキア共和国ゼムプリーン県(現・スロバキア共和国プレショウ県)ストロプコウ郡ミコー村(現・ミコヴァー村)から移民したルシン人の父オンドレイと母ユーリアの三男として、米ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれる。
移民前の元の姓はヴァルホラ(スロバキア語:Varchola,ルシン語:Вархола)。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔なルテニア東方典礼カトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。
虚弱体質で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた。
早い時期から芸術の才能を現した。
肉体労働者だった父アンドレイは1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一手で育てられた。
アルバイトをしつつ地元の高校を卒業した後、カーネギー工科大学(現:カーネギーメロン大学)に進学。
同校で広告芸術を学び、1949年に卒業。

(2) ポップアートの誕生: 20代 - 30代前半
1950年代、大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。
1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。
彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。
この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。

(3) 1960年 (32歳)、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。
『バットマン』、『ディック・トレイシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった。
当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。

1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。

ポップアートの誕生である。

1962年 (34歳)、はシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。
モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。
マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ(英語版)」等、
以後これを色違いにして大量生産しつづけた。
ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。

(4) ファクトリーでの制作活動: 30代後半 - 40代

ウォーホルとファクトリー(The Factory)に集う彼の仲間たち
1964年(36歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。
彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。
ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となる。

(5) 1965年(37歳)、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground; 以下 V.U. と略) のデビューアルバムのプロデュースを行う。
ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させる。
1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けた。
シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れなかったが、後に再評価された。
ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。
彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれている。
またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『Songs For Drella』(1990年)という追悼アルバムを作成した(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。

(6) 芸術の世界の外では、ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉 ("15 minutes of fame") で有名になった。
1968年にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べた。
1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「15分で誰でも有名人になれるだろう (In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった。

(7) 狙撃事件とそれ以降: 40代 -

アンディ・ウォーホル(右)とカーター大統領(左)(1977年)

TDKビデオカセットテープCM出演時のアンディ・ウォーホルの写真と着用のジャケット(アンディ・ウォーホル現代美術館展示、2016年、スロバキア)

(8) 1968年6月3日 (40歳)、ウォーホルはラディカル・フェミニズム団体「全男性抹殺団(S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に銃撃される。
ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。
三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に統合失調症を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかった」として3年間精神病院に入院した。
ソラナスは退院後もフェミニズムの活動を続けたが、1988年に肺炎により52歳で死去した。
この事件は『アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol』として1995年に映画化された。

(9) 1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシルクスクリーンプリントを多数制作する。
1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれる。
1972年、ニクソンの訪中にあわせて毛沢東のポートレイトを制作した。
同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになる。1974年 (46歳)、初来日。

(10) 多彩な活動: 50代 - 没
1982年から1986年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成する。
最後の作品は1986年のレーニンのポートレイトなど。
このレーニンのポートレイトは後にロシアの政商で有名なボリス・ベレゾフスキーに渡ることになる。

(11) 1983年から1984年にかけて、日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演。『イマ人を刺激する』と題して、ブラウン管にカラーバー映像が映されたテレビを右肩に持ちながら「アカ、ミドォリィ、アオゥ、グンジョウイロゥ…キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。
拡大したカラーバー映像を背景に、トライアングルを持ち、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンや、シンバルを鳴らし「オト、オト、オト、オトーサァン!」と言うバージョンもあった。

(12) 1984年にはカーズのアルバム「ハートビート・シティ」からのシングル「Hello Again(ハロー・アゲイン)」のミュージック・ビデオを手掛けたが、最初のヴァージョンは内容が過激なため放送禁止になってしまった。

(13) 1987年2月17日、ニューヨーク・マンハッタンのクラブ「トンネル」で行われた、佐藤孝信の「アーストン・ボラージュ」のショーにモデルとしてマイルス・デイヴィスとともに参加。
しかし直前に体調を悪くしイタリアから帰国したばかりで、これが最後の人前に出た姿となった。

2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。
58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同墓地に埋葬されている。


2. ゴールド・マリリン(黄金の背景を持つマリリン・モンロー)

 マリリン・モンローについては、以下を参照ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC

ゴールド・マリリンモンローについては以下のURLを参照ください。

https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a6%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%83%9b%e3%83%ab&mid=E792DADC91C429A90D99E792DADC91C429A90D99&FORM=VIRE

https://niood.com/ja/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%81%9D%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AB%E6%9C%89%E5%90%8D%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B/

このシルク・スクリーンは、マリリンの死の直後に、極短期間作られました。

 黄金の背景を持つシルク・スクリーンは、他にはありません。

 ロシア正教の「イコン」(現在のコンピュータに"アイコン"の由来となったもの)の聖人画に見られる形式です。

 「セックス・シンボル」のマリリン・モンローに畏敬を表したものと見られます。

  その他は、他のシルク・スクリーンと違いはありません。

 そもそも、シルク・スクリーンは、大量消費を目的とするものです。

 マリリン・モンローについても、黄金の背景以外に色々背景をもつものが、多量に作られています。

 経済の原則で、「希少価値を有する絵画が、高価値」となります。

 ですから、絵自体ではなく、金銭的な価値から「傑作」と評価されました。

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